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カルメン・マキ

小档案 カルメン・マキ(本名:Maki Annet Loverace、1951年5月18日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の歌手、ロックミュージシャンである。日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACE。 小简介 過去のマスコミにおいての言動から、自由奔放なイメージが付きまとうが、侠気(おとこぎ)のある人柄でもある。1978年、ギタリストCharが、芸能界から追放処分を受け、四面楚歌状態にあったとき、救いの手を差し伸べたのが彼女である。当時、精神的な沈鬱状態で、ギターを弾く状態になかった彼を、自身のツアーにサイドマンとして誘って、ギターを弾く機会と場を与えた。「救われた。マキちゃんのおかげで再スタートさせてもらった」と後年Charは、デビュー20周年記念のリットーミュージックのインタビューで語っている。この再スタートを足掛かりに、Charは、ジョニー,ルイス&チャー(後のピンククラウド)を立上げ、日本のロックの概念を変えたと言われる(商業主義からの脱却など、その意義は大きい)1979,7,14 FREE SPIRIT コンサートを成功させ、後の日本のロックを牽引して行くことになる。 大事件 誕生~歌謡曲時代 アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に生まれる。 1968年、私立香蘭女学校高等科を二年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台「青ひげ」にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台(まだこの時は通称名の「伊藤牧」名義)。この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。 芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。 翌1969年に『時には母のない子のように』(作詞は寺山修司)でデビュー。十七歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして投げやりな歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。ちなみに、彼女の曲には武満徹やクニ河内が作曲を、作詞に前述の寺山修司の他に谷川俊太郎が歌詞を寄せている。 これ以降も個性派歌手として活動し、六枚のシングルと三枚のアルバムをリリースする。前述の『時には母のない子のように』の他にも『山羊にひかれて』や『私が死んでも』『戦争は知らない』と言ったヒット曲が出た。  ロックへの転向 彼女のキャリアを語る上で欠かせないのはロックへの転向である。そもそものきっかけは、『時には母の無い子のように』のレコード大賞受賞でCBSソニー社長から「ご褒美」としてレコードプレイヤーとLP盤数枚をプレゼントされた時の事である。 そのLP盤の中にジャニス・ジョプリンがあった。それを聴いたマキは衝撃を受け、1970年に突然のロック転向を表明する。直後近田春夫(のちにハルヲフォンを結成)、立川直樹らと「カルメン・マキ&タイムマシーン」と言うバンドを結成するが、すぐに解散。その後さまざまなバンドがバッキングについたが、最終的には当時の実力派バンドであった、ギタリスト竹田和夫率いるブルース・クリエイション(第二期)に落ち着き、1971年にコラボレーション・アルバムである『カルメン・マキ&ブルース・クリエイション』を発表。このアルバムはニューロック期の名盤として評価が高い。また、それまで暗く不幸なイメージを持った歌を歌っていた過去を精算してしまった。 OZ結成~解散まで 1972年には当時弱冠18歳であったギタリストの春日博文らとともに「カルメン・マキ&OZ」を結成。メンバーは、春日博文(ギター)、鳴瀬喜博(ベース、後にカシオペア加入)、樋口晶之(ドラムス、元竜童組)。後にベーシストが鳴瀬から、千代谷晃(1stアルバム時)、川上茂幸(2ndアルバム時)へとチェンジしていった。 後に絶対的な評価を受けるグループに成長していくのだが、結成当初は順風満帆とは言えず、所属事務所からはキャバレー回りを強要され、時には客から「こんな曲では踊れない」とビンを投げつけられることもあったと言う。 しかし、こうした地道な活動が実を結び、1974年にポリドールからシングル『午前一時のスケッチ』でデビュー。翌1975年1月にはファーストアルバム『カルメン・マキ&OZ』をリリース。高い音楽性と完成度、そしてマキの歌唱力は高い評価を得、10万枚以上を売る当時のロックアルバムとしては大ヒットとなった。これは、当時のロックが日本の音楽業界ではほとんど相手にされていなかった事を鑑みれば快挙とも言える。また、同年リリースされたサディスティック・ミカ・バンドの「黒船」とともに、当時の日本のロックの到達点とする評価もある。特にこのアルバムに収録されている約12分にも及ぶ大作『私は風』はのちにさまざまな歌手、ミュージシャンにカヴァーされ、その中でも特に中森明菜のものが有名である。 人気・地位を確実なものとしたOZは、1976年にアメリカ合衆国のロサンゼルスでセカンド『閉ざされた町』を四ヶ月かけて制作。ファーストに引き続き『閉ざされた町』や『火の鳥』といった大作路線を継承しながらも風格を漂わせたものに仕上がっている。翌1977年の10月18日新宿厚生年金会館でのステージを最後に解散。その年の12月にはサードアルバム『Ⅲ』を発表。前二作とは打って変わってポップな楽曲が並んだ為に現在まで評価が分かれたものとなっているが、むしろ切々と歌い上げるマキの持ち味が発揮された好盤と言える。 また解散の翌年8月にはシングル盤として『私は風』、そして10月の解散ステージと同年5月の日比谷野外音楽堂のライブ音源を収録した『ライヴ』がリリースされている。 OZ以降~活動休止まで OZ解散後、1979年に数回の渡米を経て、ドラマーで当時ロッド・スチュアート・バンドの一員でもあったカーマイン・アピス(元ヴァニラ・ファッジ→カクタス→BB&A)の知己を得、同年彼のプロデュースのもとでソロ「ナイト・ストーカー」を発表。 翌1980年には「カルメン・マキ&LAFF」を結成。同年『カルメン・マキ&LAFF』をリリース。「60s:時には・・・、70s:OZ、そして時代は今・・・LAFF」とレコードの帯にあるようにレコード会社からも期待がかかっていたが結局思うようなヒットが出ず、1981年にヘヴィメタルバンド「カルメン・マキ&5x」へと発展解消。1982年にファースト『Human Target』、ライブ盤『LIVE X』、1983年にはセカンド『Carmen Maki's 5X』をリリースし、解散。また、この期間には村上龍原作の映画『限りなく透明に近いブルー』の音楽に参加。『リュウのテーマ』を歌っている。 その後1986年にはOZの初代ベーシストであった鳴瀬喜博や松本孝弘(のちにB'zを結成)などがいたセッションバンド、「うるさくてゴメンねBAND」に参加。ライブ活動を中心とする。1987年にはライブ盤『うるさくてゴメンねLIVE』を発表。その後出産、育児に専念するために一時的に音楽活動の休止を宣言した。 復帰~現在 1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。同年、久保田真琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。そして翌1994年には「MOSES」を結成。1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成など錚々たる面子をプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。2000年にはライブツアー「Carmen Maki 世紀末を歌う」を行う。翌年には同名のライブ盤をリリース。2003年には鬼怒無月らとともに「Carmen Maki & Salamandre」を結成。また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させていく。2004年には全曲アコースティックのアルバム『Another Way』を発表。 2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD「白い月」をリリース。中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。 現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。

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